お馬さんが可愛すぎて競馬ができなくなりそう
先日、妹に連れられて初めて競馬場に行きましてん。
例の柳楽くんやら高畑充希ちゃんやら出るCMの狙い通り、若い人も増えて明るい雰囲気だと聞いてはいたけど、ほんとにその通りだった。
まず人が多い、絶対数が多いし、子ども連れから若者からおじいちゃんおばあちゃん(!)まで、老若男女が大集合だった。
久しぶりにみた、あれだけの老若男女(言いたいだけ)
そしてびっくりしたのが、日本にはあんなにたくさんのサラブレッドがいるのですか。
次から次へと出てくる馬、馬、馬。
いったいどこにいたの、全然知らなかった今まで。
入れ替わり立ち替わり出てくるから、「この中に、さっき走った馬はいるの?」などと初心者丸出しの質問をしてしまう。
「いないよ。一回レース走ったら相当体力消耗するから、同日どころか一週間後出るかどうか」。
「ちなみに、今日は福島と京都でもレースやってるからこの3倍はいるよ」
「あと地方競馬出てる馬とか、休養で放牧中の馬とかもいるから、実際はもっといるよ」
ひー。ヒヒーン。
なにげに3連単を何回か当ててる妹の指導に従って、競馬新聞を買い、パドックをみて、マークシート塗り潰して見よう見真似で馬券を買い、当たったり外れたりであっという間であった。
あと、またしてもびっくりしたこと、競馬場の1日、超忙しい。
東京だけでもレースとレースの間が30〜40分しかないから、観客席でレースみて、結果を確認して、次レースのパドックみて、買う馬決めて、馬券買って、観客席に戻って、の頭と心と体を使う一連の動作をひたすら繰り返す。
4回目くらいから訳が分からなくなる。
私、なんでこの馬買ったんだっけ? ってなったところで限界を感じ始める。
慣れれば慣れるんだろうけど、あの畳み掛けるようなペースは、それだけでギャンブル依存症を促進しているのではないかとすら思ったね。
そして三つ目のびっくり、お馬さんがかわいい。
勝ってもかわいい。負けてもかわいい。
スタート失敗して出遅れるのも、最後100メートルで後続に抜かれてやる気なくすのも、全然人気なかったのに大健闘するのもかわいい。
よって、(大した金額賭けてないのもあるけど)負けてもイヤな気分にならない。
お馬さん、がんばったもんね〜。で終われる。
初心者で馬の個体差認識できてないため、みんなかわいく見える。
みんなかわいいので、あんまり誰を応援したいとか、誰に勝ってほしいとか、思わなくなってきちゃって、
もちろん300円あれば単勝だって3頭分買えるし、宝くじ買うよりよっぽど楽しいと思うんだけど、
そうはいってもオイラには選べねえ、
お馬さんが可愛すぎて競馬ができなくなりそうな現状。
今日も私に幸あれ。
なんでもない週末の彼女の
嬉しいことは文字にする。
週末、高校時代の友人の個展に遊びにいった。
彼女は一回就職したあと綱渡りしながら美大で写真を学び、いまも働きながら写真を撮っている、その個展。
小さなギャラリーを借りて額縁やら何やら手配して、お金がかかるから準備や運営は自分でやって、文章を書いている友人にエッセイを寄せてもらって、学生時代にみんなで旅行した土地の近くの、ある夏の風景を、彼女にしかできないやり方で作品にしていた。
本人がなんでもないことみたいにしてるから、私もリラックスして、鑑賞、その合間に写真そのものや表現について、友人が書いた文章について、お互いの近況について楽しく話して帰ってきたけど、彼女が歩いてきた道を思うと、全然なんでもないことじゃ無かったよな。
高校のときから美術が得意だったのに、いろいろあって手に職つけなきゃいけないからって腹括って勉強して、ちゃんと進学し、ちゃんと手に職つけたよな。
美大入ってからも、ある時みんなで飲んでたら突然実はそろそろ美大続けるお金がないかもとか言い出して、その場にいたうちら3人、いいから親に連絡して金借りろって、今思うとおかしな逆ギレしたよな。
そんなこともうっかり忘れるくらい、いつもなんでもない顔してるから、私もこれからもなんでもない顔で友達やってくと思うけど(ていうか多分、こっちが騒いだり褒めそやしたりしても、彼女はふんふん、って結局いつものなんでもない彼女なんだと思う)、ふとそんな思いに立ち止まったので、書き記しておく次第。
今日も私に幸あれ。
これはもう冬じゃないか
昨日スタバに入ったら、まごうことなきクリスマスの雰囲気で満たされていて、音楽、照明、飾り付けや温かさなど、あっこれがクリスマスなんだって、これは日本で育った日本人には作れない空間だわって、妙に感動してしまった。
普段モノクロの服しか着ないから、マスタードイエロー着たら季節感出ていいやろって思ったけど、マスタードイエローが映えるのは秋の街やね。
先日、ほぼ新築の我が家にゴキちゃんが出て大騒ぎしたけれど、あいつ動きもにぶかったし、ずっと住み着いてたというよりは、表が寒くなって避難したら人間の家だった風の個体だったな。瞬殺したけど。なむー。
先日、妹の案内で初めて競馬場に行った。
秋から冬にかけてはGⅠなどのレースが目白押しなのね。
お馬さんかわいかったなぁ。
そんなわけであっという間にもう冬ですね。
今年も本当によく頑張った自分を労わりつつ、お世話になった人に感謝できる師走になりますように。
今日も私に幸あれ。
観たい映画がたくさんあるのだ
週末の夜は家に籠って、久しぶりに2本連続で映画を観た。
Netflixほんとにすごいね、もう万引き家族もトイストーリー4も配信されてたよ。
いや、観たのは「マンチェスター・バイ・ザ・シー」と「オーシャンズ8」なんですけどね。
「マンチェスター・バイ・ザ・シー」は、大学の友人が配給に携わっていて、でも公開当時見られず仕舞いだったので再会できてよかった。
当時、これと迷って結局劇場では「20センチュリー・ウーマン」を観たんだよね。なのにこの文章を書くにあたって20センチュリー〜のタイトルをすっかり忘れていて、降参して2017年公開映画一覧から探しちゃったよね。(ちなみにこちらもいい映画でした)
それで、マンチェスター・バイ・ザ・シー。
これ、アメリカ映画なんだけど、こんなアメリカ映画もあるんか…っていう意味で新鮮な作品だった。
フランス映画なら「あ、うん、いつものね」って感じなんだけど、人間の心の機微を誠実に描いていて、あのラストまでこれを描き切ったのはなかなか、なかなか。
重過ぎる過去を背負った男性の小さな一歩の物語であります。
なんとなく、自分が落ち込んでる時よりは、身近な人が落ち込んでいて心配で、でも自分には手出しができない時に観る映画という感じ。(どんなだ)
「オーシャンズ8」は、期待通りの面白さだった!!
ハリウッド、エンタメ、エンタメ。
今回チームが全員女性なんだけど、彼女たちの醒めかたが妙にリアルで笑える。
これはね、一人で観てもよいし、友達と観ても、デートでも、大人数でわいわい観ても、面白い!
オーシャンズシリーズは、これからも続いて欲しいなぁ。
公開中の映画だと、何より観たいのは是枝裕和監督の「真実」です。
カトリーヌ・ドヌーヴとジュリエット・ビノシュが共演というだけでもヨダレ出そうになったのに、2人が母娘役で是枝監督で!
これは1人で観る。あぁぁ楽しみ。
それとミシェル・オスロ監督の「ディリリとパリの時間旅行」、劇場で観ようと思っていたのにどんどん公開中の劇場が少なくなってきて困った、こまった。
これも早めに行くぞ。
ミシェル・オスロって、なんであんなに透明なんだろう。
目の澄み方もそうだし、対象の掬い取り方、見せ方とか。
透明かつ愛情に満ちてるのです、矛盾なく。
しかし以前Netflixで「アデル、ブルーは熱い色」を観たら、直後にレズビアンものがドドっと「あなたにおすすめ」に上がってきて、いや、それはちょっと短絡的では、と思った記憶があるので踏ん切りがつかない。
松坂桃李くんは「新聞記者」の主演をやったことで、お見それしましたというかなんというか、役者としての決意が固まった感じがして、顔つきも一層よくなってきて、これからどんな役をやってくれるのかとても楽しみ。
そういえば、「湯を沸かすほどの熱い愛」の青年役も良かったよね。
あの映画は宮沢りえと杉咲花という、タイトル通り熱量の高い(というか画面越しに溢れんばかりの熱量を伝えられる)役者がダブル主演張ってるから、オダジョー演じる夫なんて「なんかロクでもない夫だったなー」くらいの印象しか残らないんだけど(そして映画としては多分それで成功なんだけど)、松坂桃李くん演じる青年が、最初のサービスエリアで1人タバコ吸ってるシーン、息が止まるくらい良かったなぁ。
品の良さと危うさが同居している役(イコール相当魅力的な男性)、なかなか彼ほど似合う役者が思いつかない。
他にも見に行きたい展覧会などもあり、今週末は友人の個展などもあり、たくさんインプットしたいよ楽しみ!!
今日も私に幸あれ。
久しぶりの投稿と、こんな世界でいいのか
また仕事でひと山越えたわけで、どうもお久しぶりです。
仕事と試験勉強などしていたのだけど、資格試験とか語学とかやってたら大人になっても一生勉強し続けられるという事に気付いて嬉しくなってる。
やはり地方の会社で朝から晩まで同じ顔ぶれに囲まれて、世の中の動きから目を逸らす事もできちゃって茹でガエルになるのは性に合わん。合わんのだ。
最近世の中が騒がしくて、ずっと思ってたんだけど、こんな世の中でいいのかってかよくないよね。
足元では消費税が上がり、給料は上がらず、むしろ不景気と働き方改革を掛け合わせた結果残業規制で手取りが月数万円単位で減り、欲しい物を諦めたりいくつかの日用品のランクを落とさざるを得なくなってきたけど、良いわけないよね。
私が買わなくても商品自体は存続し続けてほしいと思う化粧品、そんな勝手が通用しないのはこちらとしても分かっていて、きっと私と似たレイヤーの人は相当数いるはずで、すると高級品未満の「ちょっといいもの」がこの局面でばたばた倒れ、市場に庶民のための安価品と、一部の人のための超高級品があふれ、一度その傾向が始まったらどこまでもポジティブフィードバックがかかって両者は極限まで分離し、社会全体が地盤沈下する気が、とてもする。
いや、だから、良くないのだ。
私たちの社会は危機的状況だけど、だったら国外に脱出すればいいじゃんって考え方に私は懐疑的で、旅行とは訳が違うわけで、故郷を離れて異国の地で自分の異質さと無力さに打ちひしがれるとき、故郷の姿が見る影もなく変わっていくとき、そして永遠に失ってしまったと思うとき、その悲しみはけっこう深刻に人間の心を蝕むと思います。
それはパレスチナを見てたら、分かるなんて言えないけど、でも事実として感じるところがある。
生まれ故郷の東京を離れて地方で暮らしている自分にも、望郷という感情は、ある。
なんだか最近責任という言葉が瞬く。
やりたいことと、やれることは増えていき、人生の残り時間は減っていくというこの真理を、誰かが端的に言い表していたようないないような。
今日も私に幸あれ。
ノートルダム・ド・パリへ
春である。
山際にたなびく雲、夕空に印象派の絵筆のような朧月、漱石先生が言うところの縹渺たる春である。
ノートルダムが焼けてしまって悲しくて、
パリに思いを馳せる昨日今日。
夜空に浮かび上がる大聖堂を、写真を撮ったり讃美歌を歌ったりしながら見上げるパリの人たちの写真がたくさん報道されていましたね。
祈るとか、悼むとか、何もできないけど、失われてゆくものを見届けるとか。
報道写真だと集まっているのはいわゆる白人の人たちが多くて、生活者も旅行者含めてあれだけ多様なパリの顔ぶれからすると意外というか、違和感さえ覚えたんです、最初。
岩のドーム、聖墳墓教会ときて、嘆きの壁にも行ったのですが、壁にそっと触れながらすすり泣くユダヤ人の方たちを見たら、それ以上近づけなくなってしまった。
写真も無理だったな、その時は。
わたしみたいないち観光客が気安く触れたらいけないような、霊気というか、思いの質量というか、とにかく圧倒されたんだった。
数歩下がって、壁と一体になってしまったような人たちを前に、私は歴史的建造物としての壁を見ているのか、信仰とか物語に圧倒されているのか、今そこにいる人たちへの敬意を表しているのか、何がなんだか分からなくなったのだった。
だからノートルダム・ド・パリでも、報道写真に写る前列にはカトリックの人たちがいて、前列は彼らに譲るべきで、その後ろに私を含めた世界中の、ノートルダムに魅せられた人たちがいて、そんな構造になっているのではないかしらと、静かに想像するのであります。
パリに美しい五月が訪れますように。
そして追悼、アニエス・ヴァルダ
アニエス・ヴァルダが3月29日に亡くなっていたことを今朝知った。
あぁ…ミッシェル・ルグランも昨年亡くなり、当時の登場人物でご存命なのはカトリーヌ・ドヌーヴくらいでしょうか、ヴァルダも高齢だったからこの訃報に嫌な感じはないのだけど、シンプルに、悲しいね。喪失感だね。
今回リベラシオンの追悼記事を読んだら改めてかっこいいんだ、ヴァルダは。
最初のキャリアは写真家で、映画の世界に入ってからも作品の発想が自由で、それでいて手法の選び方が的確で、フィクションもドキュメンタリーも、映画も写真も散文も、彼女から生み出されたものは多種多様。
フランス語には<écrivain engagé (engagé な作家)> とか <créateur engagé(engagé なクリエイター )> という表現があって、engagé(アンガジェ)は「社会と深く結びついた」といった意味、より具体的には政治的な内容の発信をしたり、デモに参加したりすることを意味するんですが、
ヴァルダは明らかにengagéeな人であります。
ていうか妊娠中の大きなお腹で中絶合法化デモに参加とか、初めて知ったけど強すぎる。
それでいて表現は小難しくなく、なんていうか、作風が率直なのに味わい深いんだよね。
すてきなんだぁ。
まだ観ていない作品もいくつかあるので、ヴァルダの追悼上映観にいこうかしら、そうしようかしら。
Au revoir Agnès Varda, merci beaucoup pour toutes vos créations et vos expressions.