小倉百人一首との再会
先日好きなアーティストの好きな曲を考えたあと、ふと和歌とか、どうなんだろと思って万葉集や小倉百人一首を久しぶりに見たのであります。
この時代、ネットで検索したらそんなのも全部、出てくるのでそれはそれで有難いのだけど、やはりいつか終の住処を定めた暁には、万葉集とか古今集とか、そういうのは紙の本で欲しいですね。
というかその妄想本棚、やろう今度。
そんで、高校時代一生懸命覚えた百人一首。
久しぶりにみたら好きな歌、気になる歌が結構変わってて、これが古典の劇的なところ、古典の古典たる所以ですよねぇ。
時を経ていろんな時間のいろんな人に愛されて残ってきた尊さよ。
一番、あ変わった、と思ったのは、権中納言敦忠の歌。
逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり
これ、最初読んだときは、「え? それだけ?」って、しばらく待っても何も出ないみたいな、心から物足りない歌だったのですが。
小野小町・小式部内侍の超絶技巧に比べると、「残業だん。」くらいの軽さじゃない? なんで選ばれたん?
それが今読むと、夫に出会って結婚までのあれやこれや、結婚してからの倍々ゲームのあれやこれやで、昔は、なんて、何も知らない、気楽な身の上だったんだろう、っていうことがもろもろあって、その諸々が多すぎて逆にシンプルに言い切ることでしみじみする、そのバランスが心地いいなぁと思ったりする。
当時は「昔」が無かったから、分からなかったよね。
似た話で藤原清輔朝臣の
ながらへば またこの頃や しのばれむ 憂しとみし世ぞ 今は恋ひしき
あるいは三条院の
心にも あらでうき世にながらへば 恋ひしかるべき 夜半の月かな
も、いいなぁと思う。
昔も今も変わらず好きなのは、情景がきれいなやつ。
例えば光孝天皇の
君がため 春の野に出でて 若菜摘む わが衣手に 雪はふりつつ
とか。
逆に昔からあまり好きになれないのは、「恋の涙で袖が濡れて云々」の歌で、とにかくこのジメジメした感じが嫌。
「見せばやな」とかうにゃうにゃ言ってないで、捨てて! その服! そいつもう来ないから! って、短気なところは変わりませんでした。
それならいっそ、
来ぬ人を まつほの浦の 夕凪に 焼くや藻塩の 身も焦がれつつ
と、やってくれた方が好きですわ。
あらこれ定家の歌か。
それと、改めて感動するのは、藤原定家の撰者としての冴えですよね。
歌人が「らしさ」を最大限に発揮した歌を、国家案件ベストアルバムに入れるぞという念を感じる。
やっぱサザンの歌を一曲選ぶとして、「いとしのエリー」とか「TSUNAMI」とかいくじゃないですか。
例えば前出の小式部内侍は、他にもたくさん歌を詠んでいるけど、「大江山」の歌がそのエピソードも含め一番彼女らしかったんだと思う。
「よをこめて」の清少納言は「漢文の深い教養を武器に、男友達と機知に富んだ会話の応酬」が「らしい」と思う、
紫式部の「めぐりあひて」は友人との再会を歌ったようだけど、全体的に恋歌のようなワーディング、源氏物語幻の「雲隠」巻をも髣髴とさせる、この幻想、この湿り気が紫式部だよなぁと思う。
私はここに、定家の、「この人だったらこれだよね!」という、文学少年が作家のことを熱く語るときみたいな、和歌とその世界が好きでたまらない、冴えた興奮を感じる。
そんなわけで百人一首との幸せな再会。
今日も私に幸あれ。