ノートルダム・ド・パリへ
春である。
山際にたなびく雲、夕空に印象派の絵筆のような朧月、漱石先生が言うところの縹渺たる春である。
ノートルダムが焼けてしまって悲しくて、
パリに思いを馳せる昨日今日。
夜空に浮かび上がる大聖堂を、写真を撮ったり讃美歌を歌ったりしながら見上げるパリの人たちの写真がたくさん報道されていましたね。
祈るとか、悼むとか、何もできないけど、失われてゆくものを見届けるとか。
報道写真だと集まっているのはいわゆる白人の人たちが多くて、生活者も旅行者含めてあれだけ多様なパリの顔ぶれからすると意外というか、違和感さえ覚えたんです、最初。
岩のドーム、聖墳墓教会ときて、嘆きの壁にも行ったのですが、壁にそっと触れながらすすり泣くユダヤ人の方たちを見たら、それ以上近づけなくなってしまった。
写真も無理だったな、その時は。
わたしみたいないち観光客が気安く触れたらいけないような、霊気というか、思いの質量というか、とにかく圧倒されたんだった。
数歩下がって、壁と一体になってしまったような人たちを前に、私は歴史的建造物としての壁を見ているのか、信仰とか物語に圧倒されているのか、今そこにいる人たちへの敬意を表しているのか、何がなんだか分からなくなったのだった。
だからノートルダム・ド・パリでも、報道写真に写る前列にはカトリックの人たちがいて、前列は彼らに譲るべきで、その後ろに私を含めた世界中の、ノートルダムに魅せられた人たちがいて、そんな構造になっているのではないかしらと、静かに想像するのであります。
パリに美しい五月が訪れますように。